音楽が好きだ。
自分の店を持った理由の一つは、好きな音楽を一日中聴いていられるから、と言っても過言ではない。
音楽を余すことなく楽しむには、ある程度の環境が必要になる。
良いアンプとスピーカー、ケーブル等、機材を揃えること、そしてコンディションの良い音源を手に入れること。
さらに突っ込んでいけば、スピーカーと壁の距離、部屋の形、聴き手の立ち位置、、、きりがない。
自分の仕事はパンを作ることなので、理想のサウンドシステムを追いかけられるほど時間と金を持て余しているわけでもなく、早々に妥協することになる。
そうやって何とか落ち着いた現在の環境で、日がな一日音楽を聴いていると、やがて今まで聴こえなかった音が聴こえてくるのに気づく。
たとえばマイルス・デイビスがブレスするときの息遣い。音が鳴り出す前の張り詰めた空気。
ヴォーカルの入った曲では、歌い手の感情が音に乗って伝わってくる。
デジタルの響きの中に、確かなぬくもりを聴き取れるようになる。
本を読んでいる時も同じ。
たとえばサリンジャーの短編。
なぜシーモア・グラースは自ら拳銃の引き金を引いたのか。
表面的に文章をなぞるだけでは決して理解することのできない、行間の深み。
一回目にわからなかったところ、あるいは気にも留めていなかったようなところが、何度も味わううちに、あるいは自らが歳と経験を重ねるうちに、急にわかるようになる時がくる。
自分自身の感受性が、植物のように四方八方へ伸び、葉を揺らす風や、照りつける太陽の眩しさをキャッチできるようになって、はじめてわかることがある。
そういうものだ。
そしてそれはパンを食べる時も同じ。
よく「小麦の味が、、、云々、、、」というような表現があるが、そもそも「小麦の味」というものを知らない人が、どんなに小麦の風味豊かなパンを食べても、何も感じることはない。
あれ、いつも食べてるパンと違うな、と思っても、それを自身の経験と照合して、カテゴライズすることができない。
舌にのせた瞬間すぐに刺激的な味が駆け抜ける、化学調味料たっぷりの食品。
何度も噛む必要のない、大量生産のファーストフード。
そういうものしか知らないで、本当のパンを食べたところで何も感じることはない。
本当のパンは、いつでも誰にでも開かれたものではない。
本当のパンは、そのままの状態では受け手を選んでしまう。
本当の音楽や、本当の文学がそうであるように。
だからこそ、心ある作り手が伝えていかなければならない。
そうしないと、本当のパンは、一部の人のものだけになってしまう。
「食べればわかる」、そんなのは作り手のエゴで、そういう思考に甘んじていると結局は「わかる人だけがわかる」、狭い場所に着地してしまう。
そういうものはそういうもので魅力的だけど、僕は本当の(フランス)パンの美味しさを、一人でも多くの人へ、静かに伝えていきたい。
そのための小さな一歩になればいい、と思って、これからこのコラムを始めてみようと思う。